人魚の眠る家を観て
昨晩、プライムビデオにて、東野圭吾原作の映画「人魚の眠る家」を観た感想。
「辛いけど、魅せられる。」
あらすじとしては、小学生になる前の娘がプールで溺れ、脳死状態になる。そこからの家族の苦悩の話である。
途中で、科学の電気信号の力で、体を動かすことができるようになる。
体は動くのに、意識がないということは、果たして死んでいると言えるのだろうか。
そんなお話だ。
観ていて、急に泣けてきたシーンがある。
娘は動かなくなったけど、弟や親戚の子は元気に遊んでいて、それを見ている母の中には、動けなくなった娘も一緒になって遊んでいる。
元気な時だったなら、当たり前のような日常だったけど、もうそれは手の届かない世界。
でも、それを受け入れることはできない。
そんな風に感じ、突然涙が流れた。
それは、ポロポロ流れるような涙ではなく、嗚咽混じりの涙だった。
映画を観ながら、そんな泣き方をしたことがなかったが、急な感情の爆発だった。
映画に魅せられたのだろう。
見終わったあと、他の人の感想等を覗いていたのだが、タイトルの人魚の眠る家について書かれていたものが目を引いた。
人魚とは、人でも魚でもない存在で、脳死状態の娘も、生きているとも死んでいるとも言えないことを表しているとの考えだ。
これを見たとき、人魚でそんな表現をすることができるのかと衝撃を受けた。
東野さん、凄し。
辛い映画は、辛い。
おしまい。